まだ半袖を着るには少し肌寒い朝。 久しぶりに見せた青空が寝起きの肌を心地よく照らしてくれる。 「んーっ」 玄関先で大きく伸びをしたあたしは、よしっと気合を一つ入れてからゆっくりと走り始める。 毎朝続けているロードワーク。 昔は一人で。 今は――二人と一匹で。 半ば本気の手合わせをしながらあたしの後ろを走っているお下げの男の子と大きなパンダの足音を耳にしながら、あたしは足をゆっくりと速める。 うんうん。今日もいい感じだなー。 「まだ怒ってんのかよ」 軽やかな音と共にあたしに追いついたお下げの男の子こと乱馬は、あたしの速度に合わせて並走しつつ小さくボソリと呟く。 「うるさいわねっ! 別に怒ってなんかないわよっ」 「その言い方が怒ってんじゃねーかよ」 「別に乱馬がシャンプーから何をもらおうとあたしにはまったく関係ありませんから」 あたしのこのセリフに、隣を走っていた乱馬は「けっ。勝手にしろ」と呟いて一気にスピードを上げる。 さっきよりもスピードを上げたあたしの速度を軽々と追い越して。 何よ。 別にあたしが悪いわけじゃないじゃない。 どっちかっていうと、乱馬がわるいんだからねっ。 昨日のことを思い出して、少し速度を緩めつつあたしは小さくため息をついた。 ことの起こりは八宝斉のおじいさんだった。 「らーんまちゃんっ。あーそーぼっ」 「だぁぁぁぁっ! きもちわりぃって言ってんだろーがっ! 水ぶっかけた上に引っ付くなってぇのっ」 昨日の夕方、学校から帰ってきたあたしが洗面所に向かうと、中から女になった乱馬とおじいさんのこんな声が聞こえてきた。 「なんじゃいなんじゃいっ。か弱い年寄りになんっちゅーことをゆーんじゃいっ」 「だ・れ・が『か弱い年寄り』だってぇぇ?!」 「わしに決まっておろーがっ」 「うわぁぁぁぁっ! やめろぉぉぉっ。ひっつくなっといっとろーがっ!」 「いやじゃいいやじゃいっ! ……ん? 乱馬。おぬし尻に固いもんがあたるぞ?」 なんとなく廊下でその様子を聞いていたあたしは、おじいさんのその言葉に思わず耳をそばだてた。 扉の向こうでは静かになったおじいさんと、驚いた様子の乱馬の声が聞こえる。 「え? あっ!」 「おおおおーっっっ?! これは指輪ではないかっ!」 「へっ?! っと、おわっ!」 おじいさんの「指輪」という言葉を聞いた瞬間、あたしは勢いよく洗面所の扉を開けた。 中には、水にぬれて女になった乱馬と乱馬のお尻に引っ付いたままのおじいさん。 そして、おじいさんの手には、すごく立派な金色の……指輪?! 「あっ……あかねっ?!」 「……指輪? 乱馬が?」 目の前にある金色の指輪を見つめて、あたしは思わず茫然とする。 なんで乱馬がこんなアクセサリーを持ってるんだろう。 っていうか、中華系のその指輪には嫌な予感がひしひしと伝わってくる。 「おーっ! 懐かしいのう」 明らかにあたしから逃げようとしている乱馬と、じーっと指輪を見つめるあたしの間で、おじいさんが能天気な声を出す。 このトーン、このしゃべり方。 もしかして……。 「これはわしが若かりしころにコロンちゃんにあげた指輪じゃい」 「コロン……ちゃん?」 「そうじゃ。これは中国女傑族に代々伝わる愛の証なんじゃ。プロポーズの時にこれを贈るんじゃ」 おじいさんの言葉に、乱馬の顔がさらにうろたえる。 そして同時に、あたしの中で嫌な予感が的中したことがわかる。 おじいさんの話を丸呑みするのは危険だけど、大筋は大体いつも合ってるから……。 そう考えるとこの指輪はシャンプーのひいおばあちゃんのモノってことになる。 ……なんで、シャンプーのひいおばあちゃんの指輪が乱馬のズボンのポケットに入ってるのよ。 「ら……らん、ま?」 「ちっ。ちがうっ! 違うぞあかねっ!」 あたしの頭の中の結論に気づいたのか、乱馬は思いっきり首と手を横に振りながらあたしの目の前に立つ。 「何が違うのよ」 「だからっ! これはシャンプーが勝手にっ」 「シャンプーが勝手に何よっ。プロポーズの時にもらうものなんでしょ? ってことは、乱馬はシャンプーと結婚するんだ」 「ちっ。ちげーよっ!」 「何が違うのよ。そんな指輪大事そうにズボンのポケットに入れといて。いーんじゃない? シャンプーは乱馬にべた惚れだしねっ」 それだけ言い置いて、何かを言おうとする乱馬を無視して思いっきり洗面所の扉を閉めた。 中から、お湯をかぶる音が聞こえる。 ふんっ。なによなによなによっ! 別にあんなに慌てふためくこと無いじゃないっ。 あれじゃまるで、やましいことがありますって言ってるようなものだわ。 べ、別にあたしと乱馬の関係なんて親同士が勝手に決めたものだし。 乱馬が誰と結婚しようと一向に構わないもんっ。 むしろ、せいせいするってなもんだわ! ……でも。 最近は昔よりも上手くいってたんだけどなー。 喧嘩の回数も減ったし。 以前よりもお互いの気持ちが近づいたって思ってたんだけど……あたしの単なる思い込みだったのかなぁ。 「あかねっ! ちょっと待てよっ」 そんなことを考えながら二階にある自分の部屋に行こうと階段に足をかけたところで、お湯をかぶって男に戻った乱馬の手があたしの腕をつかむ。 「なによっ」 「ちょっとはおれの話も聞けよなっ」 「別にいいわよ。あたしには関係の無い話だし」 腕をつかむ乱馬の手を払いのけて、あたしは努めて冷静に言葉を返す。 「おまえなー」 あたしの言葉に心底脱力したーって感じで乱馬は呆れた声を出す。 そんな乱馬を無視してあたしは二階へと階段を上がっていく。 「別にあたしは乱馬が誰と結婚しようと関係ないもん。シャンプーと勝手に祝言でも何でもあげればいいじゃない」 捨て台詞のようにそう言ったあたしの前に回りこんで、乱馬は少し冷やかすような表情で口を開く。 「やきもちも度が過ぎるとかわいくねぇぞ」 「なっ! 誰があんたにやきもちなんて焼くもんですかっ! ばっかじゃないの!?」 「なんだとぉーっ?!」 「あんたみたいな変態との婚約なんて、最初っから迷惑だったんだからっ」 「おー、そうかよっ。こっちこそこんなかわいくねぇ許婚、いらねぇよっ」 「それじゃぁさっさとシャンプーと婚約しなさいよっ」 「そーさせてもらうぜっ」 ……売り言葉に買い言葉。 あたしと乱馬の喧嘩の原因は八十パーセントがこれだ。 ほんっと、心にも無いことをついつい言っちゃう。 で、乱馬がそれに応戦してくるから、気がつけば取り返しのできないところまで話が発展しちゃうのよね。 で、結局昨日の夕方のこの出来事から今朝まで、喧嘩はずーっと続いている。 それで、さっきの乱馬のセリフになるわけ。 わかってるわよ。 あの指輪だって、きっとシャンプーが一方的に乱馬に押し付けたもんだろうし。 あの言葉だって本気じゃないってわかる。 乱馬と出会って一年以上経つんだから、そういうのなんとなくわかるんだけどね。 でも。 シャンプーからの指輪をあたしが見たからって、あんなに慌てること無いと思う。 もっと堂々と落ち着いて説明してくれればあたしだってあんなに怒らないのに。 ……あたしが怒りっぽすぎるのかなぁ。 変なところで意地っ張りすぎるのがいけないのかなぁ。 そんなことを考えつつ軽くジョギング程度の速度で足を動かしていたあたしの目の前に、ふわり、と桜の花びらが舞い降りてくる。 「うっわぁぁ」 ふわり、ふわり。 それはまるで、夢の中のように幻想的な情景。 舞い散る桜の花びら。 見上げた空は、透き通った青空。 この季節にしか感じることができない、日本の春。 「よっ」 隣に川が流れるいつものコースで、舞い散る花びらを見ながら足を進めていたあたしの目の前に、ぐるりと町内を一周してきたであろう乱馬がしゅたっと現れる。 それは、デジャヴ。 前にも一度見た情景。 あれは確か――。 「……悪かったな」 「えっ?」 「シャンプーの指輪なんか、持ち歩いてて」 いきなり現れた乱馬と舞い散る花びらをぼんやりと見ていたあたしにむかって、乱馬はボソリと謝る。 「断ったんだけど、知らねぇ内に勝手にポケットに入れられてたみてぇでよ」 乱馬の言葉を聞きながら、やっぱりそうだったんだって納得する。 あのシャンプーのことだ、なにかのどさくさにまぎれて乱馬の服に忍ばせておいたんだろう。 「もういいよ」 目の前にいるお下げの許婚を見て、あたしはにっこりと笑顔を作る。 「あたしだって、理由も聞かずに怒ったんだし」 あたしの悪い癖だ。 乱馬のことになると、ついつい理由が後回しになっちゃう。 舞い散る桜の花びら。 仲直りができそうなあたしたち。 めずらしくいい雰囲気だったこの空気を壊したのは、乱馬の次の一言だった。 「だよなーっ。理由を聞かずに怒るのはおまえの十八番だもんなー」 さっきまでのまじめな表情とは一転、へらへらと笑いながら『いっつも殴られるこっちの身にもなってくれよー』と言葉を続ける。 「なっ……なんですってぇっ?!」 「あかねはもーちょっと人の話を聞くべきだぜ」 「うるさいわねっ!」 舞い散る花びらを背にそうのたまわった許婚は、あたしの蹴りを身軽な動きで難なく避ける。 早朝トレーニング。 川沿いの道。 舞い散る花びら。 目の前にはあたしの顔を見てへらへらと笑う許婚。 それらが、記憶に残る一つの場面と重なる。 あれは確か――。 「あっ! 思い出した」 「へ? なんだよ」 「一年前もこうやって喧嘩してたなーって」 「は? 一年前?」 うん。 きょとんとする乱馬を見つめて、あたしは小さく笑う。 思い出したのは、一年前、乱馬の許婚相手があたしからなびきおねえちゃんに代わった三日間のこと。 あの時も、桜の花びらが舞い降りていた。 意地っ張りなあたしのセリフから始まったあの奇妙な三角関係。 結局は乱馬はおねえちゃんにいいように利用されてたわけだけど。 でも、あの時は本気でどうしようかと思ったのを覚えてる。 「乱馬がなびきおねえちゃんの許婚になったときのことを思い出したんだー」 「あー……。あれはつらかったぜ」 あたしの言葉を聞いて、乱馬はげっそりとした表情を浮かべる。 そうだよねー。一時間単位でレンタルされてたんだっけ? 右京や小太刀には高校生のお小遣い程度の値段で売り飛ばされそうになってたしね。 「でも、ある意味乱馬も自業自得でしょ?」 「そっかぁー?! あれはぜってーになびきに嵌められたぜ」 「うーん……。たしかにおねえちゃんが一番おいしい思いをしていた感じだけどね」 かなりがっつり稼いでいたみたいだし。 でも、最後には一応おねえちゃんのおかげで乱馬と仲直り……みたいなものができたわけだし、少しはおねえちゃんに感謝してもいいかなーって思うんだけどなー。 とびっきりのおめかしをして出かけた乱馬との仲直りデート。 あれは結局乱馬がおねえちゃんに復讐するためのものだったんだけれども。 でも。 復讐はともかく、そのあとであたしにくれたバラの花束。 たとえそれがおねえちゃんへの復讐のために用意したものだったとしても。 「あたしは嬉しかったけどな」 「へ? 何がだよ」 ぼそりと呟いたあたしの言葉に、乱馬はきょとんとした顔で言葉を返す。 うん。 ぼろぼろになったバラの花束。 乱馬は何気なくくれたものなんだろうけど、あたしは嬉しかったんだよ。 そんなこと、ぜぇーったいに乱馬には言えないけどね。 「なんでもないよーだっ」 「んあ? なんだよ」 不可思議な顔をする乱馬を残して、あたしはロードワークの続きに戻る。 ふわりふわりと舞い落ちる桜の花びら。 あたしの後ろから聞こえる規則的な足音。 一年前から続いている、二人と一匹の早朝のトレーニング。 それは、あたりまえの日常。 乱馬たちが来るまで知らなかった、幸せな毎日。 「先に行ってるぞーっ」 さっきまでの不可思議な表情とは一変、まじめな顔であたしの横を通り過ぎながら、許婚は前にいるおじさまとの走りながらの組み手に戻る。 あたしの前を行く、お下げの男の子と大きなパンダとのトレーニング。 見慣れた光景をぼんやりと見つめながら、あたしも足を速める。 ずぅーっと、続くといいな。 心の中であたしは呟く。 今はまだ、口に出すことができない意地っ張りなあたしだけど。 いつか、この気持ちを素直に言葉にすることができたらいいな。 冷たさが残る初春の風を頬に受けながら、あたしはいつものペースで走り始めた。 去年の年末、TOP SECRETのsachimiさまよりクリスマス小説を頂いたお礼として(+お誕生日のお祝いを兼ねて)リクエストをお伺いした時にプレゼントするべき作品だったりします。 ……気づけば四ヶ月もお待たせしてしまって(汗) ほんっとーに遅れてしまって申し訳ございませんでした!(土下座) さて。 いただいたリクエストは「早朝トレーニングであかねちゃん視点モノ」でした。 早朝トレーニングといえば、私の中では「許婚交代編」が真っ先に浮かびます。 (乱馬くんがあかねちゃんに謝ろうとする(?)場面ですね) サイトのタイトルをあの場面から取るぐらい、私にとっては大好きな場面だったりします。 なので、このリクエストを頂いてしばらく考え続けるうちに春になっちゃって、桜を見てふと思い出したこのシーンをどうしても二次創作でやりたくって……で、出来たお話だったり。 なんだかもう、四ヶ月もお待たせしたくせに無駄に長い助長した作品になってしまって申し訳なさいっぱいです。 というか、サイトに来てくださっている方も、真冬が久しぶりにちゃんとした「小説」書いたと思ったらこんなのかよーって思われてしまいそうで(苦笑) まだまだ精進しなくちゃならんですよね。もうホント。 こんな作品ですが、sachimiさま、どうぞお納めくださいませーっ!(って、すでにメールで勝手にお届け済みですね) (06/04/22) 戻る |